それでも人生にイエスと言う

上記の本は、『夜と霧』で有名なフランクル氏の講演を、文字に起こしたものです。以前からその本があることを知ってはいたものの読む機会がなかったのですが、最近、夜と霧をもう一度読みたくなって書庫を探していたら、「これもうちにあるよ」と母。手にとって読んでみて、非常に衝撃を受けました。そして、いかに自分の生き方が至らないところだらけだったかと、身に染みて感じました。

私がフランクルが好きなのは、尊敬しているのは、言葉だけの人ではないからです。もちろん、彼の理論、いや、信念は、ものすごく崇高ですし、魂の奥の奥の奥に響いてくるものがあります。でもそれは、誰かや何かの言葉を借りて、自分を取り繕うために、カッコよく見せるために並べ立てている言葉ではないからです。彼が、その壮絶な実体験の中においても、本の中で述べている信念を実行し、生き抜いてきた、ただただその事実に、私は心からの深い感銘を覚えます。

彼は言います。どんな状況下にあっても、人間には最後の最後まで、自由意志が残されているのだ、と。重い病に倒れても、息を引き取る最期の最期まで、あなたがあなたらしく生きられる権利(かつ、義務)は、残されているのだ、と。ここまでシビアなシチュエーションではなくても、日常生活において選択しなければいけない状況というのは、限りなくありますよね。それこそ、朝ごはん何食べようとか、今日、何着て行こう、とかもそうです。たとえば朝ごはんだったら、ご飯にしようかな。パンにしようか。いや、朝からパスタもありだし、昨日の残りの鍋でもいい。甘いのが欲しいからパンケーキにしようかな、とか。でも、たとえばひとたびパンケーキを食べることに決めたら、数多あるその他全ての選択肢は、例外なく「消えます」。そして、パンケーキを食べるという事実(現象)だけが掬われ、具現化(現実化)されます。そしてこのことは、日常生活のあらゆることにおいても当てはまります。

たとえば、どうしようもなくお腹が痛い。その中で、痛い痛いと言って一日を終えるのも一つのあり方です。でも、その中でも、誰かに親切にする、という選択肢だってあるし、掃除をするという選択肢もある。もちろん、寝るという選択肢もある。どんな極限の状況下でも、そして限りなく「それ」をすることが不可能に思える状況でも、それでも人には、「それ」を選ぶ自由、精神の自由が残されているのだと。あらゆるものを外界から奪われても、そこだけは誰にも奪えないのだと。

人生において、この瞬間瞬間において、私たちは、数多ある選択肢の中からたった一つしか選べないのだという残酷さ。でもその、どうしようもない崇高さ。自分が「正しい」と思うものを、掬ってきちんとこの現実世界に落とし込んでいく。勇気と忍耐力を持って、それをしていかなくてはいけないと、気を引き締める今日この頃です。